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時代の刻印 ユニチカの軌跡

1971年(昭和46年)〜
1989年(昭和64年・平成元年)

ユニチカでの再出発、合併2社融合への道

年代
当社事項
業界・一般事項
2月

レーヨン、ポリノジック生産中止

6月

インド向けナイロン6タイヤコード技術輸出契約締結

8月

紡織近代化5カ年計画策定

10月

第2次中期経営計画策定

10月

米国UMM社と提携、ガラス繊維を生産するユニチカユーエムグラス(株)設立

2月
国際石油資本が原油値上げ、約30%値上げ
7月
繊産連、対米繊維品輸出の自主規制実施
8月
ニクソン大統領ドル防衛のため非常措置発表(ドルショック)
10月
対米輸出規制政府間協定仮調印
12月
多国間の通貨調整成立(スミソニアン体制発足)
5月

全国発明表彰で栄輝の製造方法に恩賜賞

5月

富井社長辞任、小幡謙三社長就任、経営陣新体制でスタート(5/31)

9月

中期計画(再建の方針と計画)策定

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ナイロンタイヤコード糸は昭和47年をピークにナイロン繊維の代表銘柄に成長した。

1月
ポリエステルフィラメント自主操短実施
1月
日米繊維協定正式調印
9月
日中共同声明に調印、国交樹立
2月

大阪国際ビルディング竣工

4月

垂井工場でガラス繊維織物を本生産

4月

初代ユニチカマスコットガール発表

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大阪国際ビルディング竣工

ニチボーが所有していた大阪市東区安土町2-30の土地約6,400平方メートルを利用して、(株)竹中工務店と共同で超高層ビルの建設を計画。1970年(昭和45年)7月、大阪府都市計画地方審議会より「特定街区」の正式許可を得たので、ユニチカ・竹中工務店両社はビル建設委員会を設けて計画を進め、1973年(昭和48年)2月19日「大阪国際ビルディング」はオープンした。地下3階、地上32階、塔屋1階、高さ125メートル。当時関西では最も高いビルであった。

10月
第4次中東戦争勃発
10月
第1次石油ショック
3月

小寺新六郎社長就任、小幡社長は会長就任(3/28)

5月

ナイロンフィルム開発に高分子学会賞受賞

6月

コンピュータ機種をIBMに統合

10月

栄輝(エイテル)事業撤収

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コンピュータ機種をIBMに統合

合併前の両社が使用するコンピュータの機種は、ニチボーがFACOM230-50、日本レイヨンがHJTAC8400であった。統一システムを構築したものの、合併前の双方システムの機能を満たすように配慮したため、運用効率が悪く新型コンピュータ“IBM370-145”に統合した。


エイテル事業からの撤退

1974年(昭和49年)10月、当社はシルキー合繊の1種であるベンゾエート繊維「エイテル」の生産をほぼ全面的に停止するとともに、同繊維からの撤退を決定。

1月
日中貿易協定調印
7月
繊維工業構造改善臨時措置法施行
10月
日米新繊維協定発効
1月

岡崎工場でポリエステルスパンボンド第1号機稼働

5月

名古屋工場、犬山工場、桐生工場閉鎖

12月

ユニチカ、東洋紡、鐘紡、天然繊維分野中心に3社提携

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岡崎工場でポリエステルスパンボンド第1号機稼働

第1号機は1975年(昭和50年)1月から稼働を開始し、同2月にはスパンボンド開発部が発足し、陣容を固めて本格的な営業活動に入った。翌年1月第2号機(5T/D)を完成し、この年10月スパンボンド事業部と改称。

工場閉鎖、工場と子会社1社の規模縮小、人員削減(希望退職と一時帰休)を中心とする合理化対策を決定。

1974年(昭和49年)末の保有土地面積は、427万平方メートル、簿価は43億5,200万円、1平方メートル当たりの単価は1,019円であった。そして工場(16工場)のみでは364万5,000平方メートル、1平方メートル当たり簿価はわずか384円であった。

1975年(昭和50年)2月から3月にかけて経営対策について労使の妥結が成り、3月17日から10日間にわたる希望退職者募集に対し、776名の応募があった。また労組への提示とは別に、本社・工場の管理職750人を対象に、希望退職募集に踏み切った。

1月
紡協・化繊協加入120社の紡績不況カルテル実施
1月
梳毛紡績不況カルテル実施
2月
完全失業者100万人突破
4月
南ベトナム・サイゴン政府降伏
5月

テキスタイル事業を分離、ユニチカテキスタイル(株)発足

10月

スパンボンド事業部新設

2月
ロッキード事件発覚
2月

ポリエステルタイヤヤーン本格生産販売開始

2月

「体質改善計画」策定-20%人員削減、レーヨン等5部門分離

4月

5部門分社化、ユニチカ化成(株)、ユニチカレーヨン(株)、大阪染工(株)、(株)ユニチカ環境技術センター、ユニチカメインテナンス(株)設立

4月
公取委、短繊維紡績糸の第2次不況カルテル認可
4月
公取委、梳毛糸の第2次不況カルテル認可
10月
合繊勧告操短始まる
2月

帝人(株)と提携交渉

3月

エイテル(株)会社整理

10月

日本エステル粉体塗料用樹脂(ER)生産開始

1月
対ドル円相場237.9円(戦後最高値)を記録
4月
合繊、勧告操短を不況カルテルに切換え
5月
特定不況産業安定臨時措置法公布
5月

中国・伊盟羊絨衫廠ヘカシミヤプラント輸出

7月

綿エステル短繊維事業本部の興産会社計画拡大

1月
合繊過剰設備凍結実施(56年3月まで)
1月
第2次石油ショック
1月

食品部門業務をユニチカ三幸に移管

12月

血管カテーテルを発売(発売元、日本シャーウッド(株))この時期、海外資本からの撤収相次ぐ

9月
イラン・イラク戦争勃発
10月
日米繊維交渉妥結
10月

ユニチカユーエムグラス、工場を京都市伏見区から宇治市宇治小桜に新築移転

11月

ビニロンFRC分野へ本格進出

12月

オーツタイヤの経営権を住友ゴム工業に譲渡

5月
公取委、短繊維紡績糸の不況カルテル認可
4月

平田豊社長就任、小寺社長は相談役に(4/6)

10月

ユニチカテキスタイル(株)を合併しテキスタイル事業本部とする

10月

メディカル開発部新設

10月
改正商法施行
10月
勤労者財産形成年金貯蓄制度発足
7月

ポリエステルフィルム「エンブレット」本格生産開始

12月

ユーアイ電子(株)設立

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経営多角化への挑戦と挫折

大蔵屋

昭和49年同社株式の44.5%を保有したが、昭和58年に入り大蔵屋の持ち株を全て東洋不動産に売却、経営権を譲渡

ミニスキー

昭和48年発明者高橋巌夫から、製造・販売に関する専用実施権を譲り受け、レジャースポーツ商品への初の進出を試みたが昭和50年末撤退

化粧品

昭和50年6月フランスのカリタ社と提携。しかしハイリスクであることから10月には契約をキャンセルし、化粧品分野より一時撤収。

8月
日本ポリエステル長繊維ダンピング問題に、米商務省 “クロ”の仮決定
3月

羊毛部門を分離 ユニチカウール(株)設立

 
9月

ユニチカ化工(株)会社整理

10月

熱可塑性液晶ポリエステル樹脂開発

9月
第1回日韓繊維産業連盟会議
9月
G5、プラザ合意
4月

金属繊維開発部・活性炭繊維開発部設置

6月

中央研究所新館完成

10月

5部門分社化、(株)ユニチカリサーチラボ、ユニチカガーメンテック(株)、ユニチカ販売(株)、ユニチカ情報システム(株)、ユニモア(株)

11月

PF樹脂開発部・電子材料開発部新設

2月
フィリピン・アキノ大統領誕生
4月
男女雇用機会均等法施行
4月
「前川レポート」発表

4月

ユニテックサービス(株)設立、ユニチカ設備技術(株)発足

6月

オレフィン系スパンボンド「エルベス」開発

10月

メタ系アラミド繊維「アピエール」開発部設置

 
3月

カネマツユニカ(株)会社整理

3月

日本アロマ(株)会社整理

4月

関原工場閉鎖

7月

大阪ガス(株)と共同で活性炭繊維を生産する(株)アドール設立

シルキー合繊を代表する「シルミー5」
1月
円相場1ドル120円45銭の史上最高値
8月
イラン・イラク戦争停戦

3月

強力人絹事業から撤収

5月

第38回全日本バレーボール(女子)でユニチカ8年ぶり15度目の優勝

6月

ユニチカ創立100周年記念日(6/19)

6月

田口圭太社長就任、平田社長は会長就任(6/29)

10月

ユニチカ化成、ユニチカレーヨン、ユニチカウール3社吸収合併

ユニチカ創立100周年記念式典
1月
昭和天皇崩御、平成に改元(1/8)