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時代の刻印 ユニチカの軌跡

1946年(昭和21年)〜
1960年(昭和35年)

戦後の再建と復興、合成繊維時代の夜明け

年代
当社事項
業界・一般事項

大日本紡績

1月
大垣化学工場、スフ紡績生産再開

日本レイヨン

7月

宇治工場で皮膚病薬チアントール、チアントールパスタ生産開始

7月

岡崎工場で合板テックス(エイコーライト)の生産に着手

大日本紡績

日本レイヨン

8月

特別経理会社に指定される

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大日本紡績の復興

原綿・羊毛の原料在庫は戦災もあり国内消費の1か月分に満たないものであった。戦時中からの継続操業工場は10工場のみ、約130万錘から格納機械を含め38万錘と29%にも減少した。戦争による損失は、8,433万円、接収された在外資産は1億7,737万円と算出された。


日本レイヨンを支えた姫路工場

姫路工場のトリコット機

終戦直後苦境に立たされた中で、独り活況を呈していたこの工場によって何とか支えられた。靴下編機類約300台とミシン約100台を擁してレーヨン糸やレーヨンスフを原料とする男子ソックスなどの製品は、つくれば飛ぶように売れたという。


この時期、大日本紡績の設備は26万7848錘から46万2532錘まで復元した。

2月
金融緊急措置令・同施行規則公布施行、預金封鎖
7月
GHQ、統制会解散命令
8月
繊維緊急対策要綱閣議決定
10月
企業再建整備法公布
12月
GHQ、独占企業解体指令

日本レイヨン

8月

岡崎工場 硬質繊維板エイコーライト 月産4,000枚生産設備完成

8月

宇治工場エイコーウイスキー生産開始

12月

日本レイヨン(株)に社名復帰(12/27)

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エイコーウイスキー

航空機用燃料の原料として備蓄されていたアルコールを転用し、「寿屋」(現サントリー)の援助を受けてウイスキーを生産した。口あたりの良さで人気となったが、製造免許は手持ちの原料がある範囲に限られたため、早々に製造が打ち切られた。

1月
GHQ、人絹糸は全て輸出用に供すべき旨指令
2月
GHQ、綿紡復興の中間目標400万錘を勧告
4月
独占禁止法・労働基準法公布
5月
日本国憲法施行(5/3)

大日本紡績

2月

過度経済力集中排除法の指定を受ける

日本レイヨン

3月

宇治工場 レーヨン糸日産1トンの設備運転開始

繊維工業は輸出の好況によって業績は大幅に伸びる

4月
日本紡績協会創立
4月
GHQ、第2次人絹糸復元計画許可
8月
日本化学繊維協会設立
9月
GHQ、輸出繊維品の公定価格撤廃方針発表

日本レイヨン

3月

岡崎工場の硬質繊維板ネオ・エイコーライト(サンライト)販売

8月

綜合研究所にナイロン(レヨマイド)中間試験工場の建設着工

3月
米公使、日本経済安定9原則声明(ドッジライン)
4月
単一為替レート(1ドル360円)設定、告示

この年、ドッジラインの実施で不況深刻化

大日本紡績

4月

坂越工場のビニロン第1次日産3トン起工

日本レイヨン

3月

綜合研究所にナイロン(ニプロン)中間工場第1設備(日産30㎏)完成

10月

たま八型自動操糸機を桐生工場に設置してテスト開始(たま電気自動車と共同開発研究)

「糸ヘン」ブーム到来
この年、わが国のスフ生産量世界第1位にレーヨン及びレーヨン織物の輸出、戦後最高

1月
人絹糸同織物公定価格撤廃
5月
スフ、スパンレーヨン糸、同織物公定価格撤廃
6月
GHQ、化繊生産能力拡大許可
6月
朝鮮動乱勃発
10月
GHQ、繊維産業に対する設備制限全廃

大日本紡績

10月

豊橋工場、常盤工場の完成

11月

昭和天皇 高田工場ご来場(11/19)

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戦後日本の幕開けと昭和天皇の高田工場ご臨行

1951年(昭和26年)11月19日、昭和天皇が大日本紡績高田工場(旧工場、奈良県大和高田市)を視察された。戦後の重要な輸出産業のひとつであった繊維産業に対する期待の大きさが伺われるもので、お言葉の中には、繊維産業の重要性、従業員の健康と組合の健全な発展を望まれたことなどがあげられている。この夜、昭和天皇は奈良県知事公舎において講和条約、日米安全保障条約に批准する調印をされ、まさに戦争終結と戦後の自由主義社会への門出を決断した日であった。昭和天皇は当社に都合6回、ご訪問されるとともに、翌昭和27年の歌会始めで高田工場の女子社員のことを「古の奈良の都のおとめごも新しき世にはた織りはげむ」とお歌にして発表された。

5月
動乱ブームで繊維各社法人所得ベスト10を独占
7月
改正商法施行、再評価積立金の資本組入れ開始
7月
繊維暴落 恐慌相場となる

この年にスパンレーヨン糸、レーヨン織物輸出世界一を記録

日本レイヨン

3月

岡崎工場で強力人絹、日産5トン設備運転開始

強人紡糸機(岡崎工場)
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朝鮮景気と反動

綿紡は1年半の間に250万錘に近い設備増加を示し、戦争終息とともに繊維相場は暴落し第1次大戦後の反動不況を思わせるものであった。日紡は希望退職を募集。退職金の満額支給に2ヵ月分の平均賃金が加算され、帰郷旅費が支給された。この結果男子105名、女子4,447名、合計4,552名が退職し、28年までに前後2回にわたる退職者の数は合計6,205名に達した。

4月
化繊業界、自主操短強化協議
4月
対日平和条約及び日米安保条約発効、GHQ解散

大日本紡績

3月

統一バレーボールチームを貝塚に結成、監督に大松博文

日本レイヨン

8月

宇治工場内にナイロン工場建設決定(第1次建設日産5.5トン)

3月
日米相互防衛援助協定(MSA)調印
6月
近江絹糸争議始まる9月終息
6月
繊維相場安値更新
7月
陸海空軍の自衛隊発足

大日本紡績

7月

坂越工場のビニロン増設、日産7トンとなる

9月

バレーボール全日本女子総合選手権で貝塚チーム初の皇后杯

日本レイヨン

10月

宇治工場 ナイロン日産 5.5トン操業開始

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宇治ナイロン工場 操業開始

宇治ナイロン新工場外観

1954年(昭和29年)
日本レイヨンは取締役会においてインベンタ社の技術援助によりナイロンの企業化を決定。同時に原料ラクタムは宇部興産株式会社より購入することとなった。


開場式でラクタムを投入する坂口社長
日本レイヨン ナイロン学生服ポスター
5月
綿紡第2次勧告操短(31年6月まで)
8月
繊維製品品質表示法公布(11月施行)
8月
繊維産業総合対策審議会設置
11月
綿紡大手10社スト突入

この年、後半から「神武景気」始まる

大日本紡績

8月

坂越工場、ビニロン第3次3トン増設起工

日本レイヨン

2月

ナイロン市販開始、市販本格化

3月
化繊業界、通産省勧告に従いスフ生産計画縮小
6月
繊維工業設備臨時措置法公布(10月施行)
12月
国際連合総会、日本の国連加盟可決

大日本紡績

11月

坂越工場第4次ビニロン増設着工

日本レイヨン

1月

岡崎工場スフ増設日産43.7トンに 、操業短縮開始

8月

宇治工場レーヨン糸 戦後初の操業短縮(ピーク時の50%)

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坂越工場(第1工場)ビニロン第1期第2次日産10トン
竣工式における工場長・飯尾冨雄ほか従業員
(昭和32年4月23日)

なべ底不況

神武景気に乗って行われた設備の増大は、新たに一層深刻な不況の原因となった。“なべ底不況”と俗称され、1957年(昭和32年)末にほぼ解消して、以後まもなく“岩戸景気”に向かって行くが、波に乗った繊維と乗れなかった繊維の明暗が分かれた。
結局、レーヨン(糸・スフ・織物)と天然繊維全般が沈み、不況は5年の長きに及んだ。そして嵐が去った跡には、繊維素材における新旧交替の姿が浮き彫りにされていた。

3月
欧州経済共同市場(EEC)条約調印

戦後のわが国人絹糸生産量、この年をピークに下降 なべ底不況始まる

日本レイヨン

3月

レーヨン操業短縮強化、操短率糸50%、スフ30%に

3月

宇治工場ナイロン設備3次建設完了により日産23トン体制に

4月
戦後第3次綿紡勧告操短
4月
東レ三島・帝人松山工場
ポリエステル生産開始
5月
全国綿糸布在庫56万8千梱と発表 戦後最高
5月
ポリエステル繊維、法人税免税物産に指定
11月
製糸製造設備臨時措置法施行、製糸設備縮小始まる

大日本紡績

2月

常盤工場ビニロン紡績工場竣工式

4月

垂井工場ビニロン紡績工場竣工式

6月

日紡記念館竣工式(6/18)(現在のユニチカ記念館)

「岩戸景気」に沸く

4月
最低賃金法公布(7月施行)
4月
国民年金法公布(11月施行)

大日本紡績

3月

山崎工場に不織布機械一式を設置

日本レイヨン

4月

宇治工場レーヨンケーク大型化
インベンタ/エムス社のポリエステル技術導入を模索

7月
繊維工業設備臨時措置法改正法公布
12月
国民所得倍増計画決定(高度成長政策始まる)

この年、強人需要拡大
ナイロンタイヤコードヘの転換始まる