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時代の刻印 ユニチカの軌跡

1961年(昭和36年)〜
1970年(昭和45年)

合繊時代の到来と構造不況打開を模索

年代
当社事項
業界・一般事項

大日本紡績

9月

日紡、三菱化成、日本合成の共同出資でポバールを生産する日本ポリマー(株)設立

日本レイヨン

5月

綜合研究所本館竣工

9月

インベンタ/エムス社とポリエステル繊維技術導入契約締結

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現在のユニチカ中央研究所、中央が研究所本館

綜合研究所本館竣工。当時の坂口二郎社長は1946年(昭和21年)社長就任後、研究所の重要性を鑑み同年11月、当時の中央研究所から綜合研究所へと名称変更し育成した。現在は当社の中央研究所として名称が変わっているが、坂口二郎の功績を讃え、この本館前には氏の胸像がいまも研究所を見守っている。

5月
資本取引自由化実施
5月
米大統領、米国繊維産業援助7項目計画を発表
7月
ガラス繊維協会設立

大日本紡績

1月

坂越工場第2工場開所(1/17)

11月

東京工場綿紡部門休止

日本レイヨン

3月

岡崎工場強人生産設備日産27.7トンに

6月

宇治工場ナイロン設備第6次建設完了により日産38トンに

10月
人絹糸の生産指示量制及び封緘制廃止
11月
日レ・倉レ・東洋紡の統一商標、「エステル」に決定
11月
主要綿製品の輸入を自由化

この年をピークに強力人絹の生産量減少へ

大日本紡績

3月

ニチボー不動産(株)の設立

日本レイヨン

3月

内外硝子繊維(株)設立
ガラス繊維事業に進出

5月

エステルパイロットプラント完成(綜合研究所内)

内外硝子繊維(株)伏見工場
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モータースクール竣工式のパレード

ニチボー不動産は所有する不動産の積極的な運用開発を図る目的で設立。まず大阪市内の所有地における駐車場の経営と、1962年(昭和37年)11月に閉鎖休止した東京工場における貸倉庫、自動車教習所の経営から事業をスタートすることになった。ニチボーモータースクールは旧東京工場のグラウンドを利用し、翌昭和38年10月3日竣工式を行い営業を開始した。

6月
スフの生産指示量制廃止

後半から翌年にかけナイロン後発4社操業開始

大日本紡績

1月

郡山工場閉鎖決定

4月

社名をニチボー(株)に改称(4/26)

日本レイヨン

2月

岡崎工場のエステルエ場竣工

3月

エステル短繊維日産5トン操業開始

宇治工場ナイロン設備第9次建設完了により日産74.2トンに

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東京オリンピック大会で
ニチボー主体で結成された日本女子バレーボールチームが優勝

東洋の魔女伝説 1964年(昭和39年)10月23日

東京オリンピック、女子バレーボール決勝。ニチボー貝塚女子バレーボールチーム主体の日本代表はソ連に3-0で快勝。「東洋の魔女」は一躍日本中にその名を轟かせた。テレビ視聴率も66.8%を記録、NHK、民放を合わせた合計視聴率が85%に達したといわれる。その記録は現在も破られていない。

4月
国際通貨基金8条国に移行、国際経済社会へ復帰
4月
日本、経済協力開発機構(OECD)に正式加盟
6月
繊維工業設備等臨時措置法(繊維新法)公布
6月
ナイロン製品、ニットに集中の傾向出現
10月
東京オリンピック大会でニチボー主体の日本女子バレーボールチームが優勝

日本レイヨン

2月

ナイロン、エステル自主減産開始

11月

不況深刻化に伴い坂口社長非常事態宣言

9月
化繊協会スフ部会、10月から自主減産決定
10月
紡績業、不況カルテル発足
12月
40年の繊維消費量、初めて化学繊維が50%凌駕

ニチボー

4月

希望退職者募集を中心に合理化対策

5月

三和銀行 渡邊忠雄取締役会長を相談役に

日本レイヨン

4月

鐘紡・三菱化成・ニチボーが合弁で日本エステル(株)設立

9月

ナイロン2軸延伸フィルムの開発に成功

日本エステル岡崎工場
4月
東洋紡、呉羽紡と合併

この年、下期から景気上昇「いざなぎ景気」

ニチボー

1月

「緊急対策実施要綱」として社長通達第1号が発せられる

日本レイヨン

3月

宇治工場でPEB(ポリエチレン・オキシベンゾエート)日産1トン生産を決定

6月

PEB事業開発室設置、商標を「栄輝(エイテル)」とし、栄輝事業開発室に改称

4月
スフメーカー社長会、設備廃棄計画実行決定
7月
米下院、繊維品輸入制限法案(ミルズ法案)提出
8月
特定繊維工業構造改善臨時措置法施行

この年、合繊生産高、初めて綿糸生産高を凌駕

ニチボー

1月

大垣工場スフ生産停止、製造設備廃棄

11月

酢ビ・ポバール新会社、信越化学との間に設立(ニチボーケミカル(株)、信越酢酸ビニル(株))

日本レイヨン

3月

宇治工場ナイロン設備日産137.5トンに

7月

日本エステル岡崎工場 エステル長繊維生産開始

7月

京都工場内のナイロンフィルム工場竣工

ナイロンフィルム新工場(京都工場)外観
3月
紡協、100万錘上限に過剰紡機の一括廃棄決定
3月
繊維12団体で対米繊維輸出対策協議会を結成
9月
ポリエステル後々発3社(鐘紡、旭化成、三菱レ)の参入が承認され、8社体制へ

ニチボー

4月

ニチボー(株)、日本レイヨン(株)合併契約書に調印(4/30)

日本レイヨン

1月

エステル長織維販売開始

5月

日レ・帝人・鐘紡の3社業務提携解消

9月

栄輝岡崎工場完成 栄輝設備日産3トン操業開始(宇治工場の生産中止)

ユニチカ

10月

ニチボー(株)と日本レイヨン(株)合併、ユニチカ(株)発足(10/1)

10月

取締役会長に原吉平、代表取締役社長に坂口二郎就任(10/1)

10月

大阪本社 東区北久太郎町4-68大阪センタービルに移転

10月

プラスチック研究所発足

東京・八重洲口のユニチカネオン塔
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ユニチカ誕生(10/1)

合併時の保有土地面積は、469万平方メートル(東京都中央区の約半分)従業員数2万2,356名、年間売上高1,700億円、工場21ヶ所、海外拠点16ヶ所


「日本レイヨン」と「ニチボー」との突如としてなされた合併発表は、強烈な衝撃波となって社内を走った。マスコミの反響は強烈であった。片や天然繊維、片や化合繊を主力として競合がほとんどなく、昭和43年上期の両社合計売上高842億円は、東レを凌ぐ繊維業界最大を示すものであったから、国際競争激化時代における先見性のある理想的な合併と評価し好感をもって迎えた。しかしながら何故か株価はこれに反応を示さず、3月の最高株価は66円止まりで前月の70円にもおよばなかった。

ユニチカ社名の由来

ユナイテッド(結合した)の「ユ」、ニチボーとニチレの「ニチ」、カンパニーの「カ」を組み合わせたもので、つまりニチボーと日本レイヨンとがしっかり結びついた会社という意味である。

5月
衆院本会議「米国の繊維品輸入制限に反対決議」採決
11月
原会長ジェトロ理事長就任(11/7)
11月
日米共同声明発表(佐藤・ニクソン会談)
1月

ポリエステル特許訴訟和解成立

3月

ユニチカ中央病院竣工

4月

会長に塩塚忠美、社長に富井一雄就任(4/30)

7月

ユニチカケミカル(株)、信越酢酸ビニル(株)合同完工式

9月

ユニチカ・竹中工務店折半出資により、ユニチカビルディング(株)設立

3月
日本万国博覧会開幕
5月
米国、日本の対米繊維輸出自主規制を強硬申入れ